執筆者 江副 章之介 | | column
私に限定本や特装本、ルリユ―ルの魅力を教えてくれたのは気谷誠さん、大家利夫さん、武者統夫さんです。気谷さんからは「本は五感で読むものです」と、大家さんからは「本は自分でつくるものです」と、武者さんからは「普及本と限定本・特装本・ルリユ―ルとは大きく異なる。希少な本での読書は至福の時を感じる」ということを教わりました。
三人から聞いたことをじっくり考えた結果、自分では出来ないものの製本家に製本を依頼するということ、そして版元を立ち上げて自分の好きな本を少部数出版するということが、本(造り)の魅力なのではないのかという自分なりの結論に達しました。
ここではルリユ―ルの魅力を知ったきっかけと、愛書家・気谷さんの思い出を記しておきたいと思います。
私が気谷さんに初めてお目にかかったのは、1995年の大晦日、製本家で装幀家の大家利夫さんのアトリエに愛書家・製本家仲間が集った懇親会の席でした。気谷さんを初めとして山田俊幸さん、渡辺和雄さん、藤井敬子さん、近藤理恵さん、山崎曜さん、北見俊一さん、武者統夫さん、そして私は、大家さんの手作りの料理をいただきながら、夜遅くまで静かにしかし熱く書物に関して語り合ったものです。書物とは、製本とは、装幀とは、ルリユ―ルとは如何なるものか、如何にあるべきか、等々。私はただ拝聴するだけでしたが、書物の魅力と奥深さを知って、感動していました。私の目の前に「書物」という新しい世界が広がっているのを感じました。
気谷さんといえば、版画研究家であり愛書家でもあり、そしてオートバイ愛好家でもありますが、いつも思い出すことがあります。私が日本工営福岡支店に勤務していた時期に、気谷さんは琉球大学図書館に勤めておられ、私が那覇に出張した折に一度お会いしたことがあります。夕方勤務が終わり、気谷さん行きつけの飲み屋にオートバイに相乗りして行きました。美味しい泡盛を、郷土料理と共にゆっくり味わいながら、沖縄のお話をしたことを思い出します。帰路も、少しお酒が入ってはいましたが、オートバイでホテルまで送ってもらいました。その後沖縄で出された気谷さんの文集が送られてきました。南国の風を浴びてオートバイを走らせる気谷さんの姿が思い浮かぶような内容でした。
気谷さんが亡くなられたのは2008年9月22日のことで、享年54歳でした。最後にお会いしたのは、その年の3月13日、東京国際フォーラムで開催された国際稀覯本フェア初日の会場でした。一緒に会場を廻り、幾つかのお店の書物を眺め、田村書店に出されていた大家さんと藤井さんのルリユール本を見ながら、ルリユールを理解する人の少なさを嘆くと共に、これからもルリユールに興味を持ち、多くの製本家に依頼するように励まされました。気谷さんの期待にどれだけ応えられるか分りませんが、私はこれからも気谷さんが遺されたブログを一冊の本にまとめた『ビブリオテカ グラフィカ』(レイミア プレス私刊限定2部)を座右の書とし、書物の世界と深く関わってゆこうと思っています。
江副章之介
執筆者 江副 章之介 | | column
第31回蔵書票世界大会に出席するために、私は2006年8月18日に成田を発ちました。
会場は、スイスのレマン湖に面するニヨンですが、ニヨンに行く前に蔵書票作家と会うためにプラハに立ち寄りました。プラハの旧市街に宿泊し、Josef Dudek、Jiri Brazda、Marina Richterova、Vladimir Suhanek のアトリエを訪ねました。皆さんからは大歓迎を受け、作品を頂戴したり、新たな蔵書票を予約したりして素敵な時間を過ごしました。直接作家と触れ合った夢のような数日が過ぎ、いよいよニヨンへとプラハを発ちました。
世界大会は22日から始まりました。メイン会場では各国の蔵書票愛好家と作家が蔵書票の交換と作品の販売に余念がありません。私も持参した蔵書票を手にしながら、これは、と思われる愛好家に近寄り「交換しませんか?」と話しかけ、お互い持参の蔵書票を見せ合いながら交換をしました。このような方法でたくさんの愛好家との交換で、素晴らしい蔵書票がたくさん集まりました。それとまだ会ったこともなかった作家と直接交渉で蔵書票制作をお願いしたり作品を購入したりと、素敵な時間は瞬く間に過ぎてゆきます。主催者は参加者を飽きさせないためのおもてなしを色々企画しており、遊覧船でのレマン湖巡り、博物館訪問、ニヨン城などの市内観光などなど。それと毎晩ウエルカムパーティがあり、多くの人たちが会場のあちこちで交歓しあっていました。少し酔った人たちが手に手にお酒を抱えて、パーティ会場から夜のニヨン城へと繰り出し、真夏とはいえ気持ちのよい夜風に吹かれながら、愉しい歓談の余韻に浸っていました。そのような会場で、私はドイツのナタリーとラトビアのナターリアと知り合いました。ナタリーはコレクターでナターリアは作家です。二人な名前が似ていることもあり、いつも一緒に行動している仲の良い友人です。もちろん私はナタリーと蔵書票を交換し、ナターリアには新作を注文したのでした。このような素敵な大会も幕が下り、皆さんはそれぞれ自国へと帰ってゆきました。私も8月27日に帰国の途につきました。
それから4年後の2010年11月、ナタリーとナターリアが突然日本にやってきました。私たち日本の蔵書票愛好家は、二人の歓迎会を開いておもてなしをしたことは言うまでもありません。私も日本滞在10日間の内の一日をアテンドし、鎌倉と横浜のみなとみらい地区を案内しました。そのために20ページほどの英文ガイドブックを作成し、二人の観光に役立ててもらいました。
二人は10日間の日本観光を終え、台湾、香港・マカオ、中国の広州への次の旅先へと大阪から飛び立ってゆきました。
私たちが開いた歓迎会の席上で、二人の来日を記念して蔵書票を作ってくれるようにナターリアにお願いしていました。しばらくすると、彼女から見本刷りが届きました。「木の葉」というタイトルで植物の妖精フローラの周りに、歓迎会出席者のイニシャルが刻まれた色々な樹木の12枚の葉が舞っています。鳥居も描かれています。とても素敵な12人の票主の蔵書票が出来上がりました。ナターリアがこの蔵書票の制作中に東日本大震災が発生し、多くの犠牲者を出しました。ナターリアもとても心配し、私たちの安否を尋ねてきましたが、幸いにも我々のなかには被災者はいませんでした。彼女は少しでも被災者の役に立ちたいと、蔵書票の制作費代金を寄付したいと申し出てくれましたので、私が代理となって日本赤十字社に寄金しました。2011年3月下旬のことです。従ってこの蔵書票を見るたびに私は色々なことを思い出してしまいます。これはそのような蔵書票なのです。
Natalija Cernetsova (Latvia)/C3
執筆者 江副 章之介 | | column
日和崎尊夫さんによる蔵書票「読書するピエロ(仮題)」に関するいきさつを書いた拙文が、1995年11月1日発行の『蔵書票ジャーナル』第8号に掲載されています。内容は以下のとおりです。
日和崎尊夫さんの蔵書票
10年ほど前(1985年頃)になるでしょうか、日和崎さんに蔵書票を作ってもらう機会がありました。日和崎さんの作品については、昭和48(1973)年頃の朝日新聞に連載された「新動物誌」の挿絵以来、大変興味を持っていましたので、早速お願いすることとしました。
蔵書票を依頼してから3年程(1988年頃)が過ぎても、なかなかくだんの蔵書票が出来てきません。遠く高知に住む日和崎さんに失礼を承知で手紙を書きました、「私の蔵書票は、いつごろできるのでしょうか」と。日和崎さんからはすぐに電話があり、「蔵書票は作るから安心しろ」と土佐訛りで話されました。作家からの直接の電話に私は驚きましたが、蔵書票が送られてくるのは間違いないと思い、安心して気長に待つことにしました。日和崎さんからはその後、高知名物の鰹節を送っていただいたり、ある年の正月など、「元気ですか。うまい酒どうも有り難う」と、すこしお酒の入った状態で突然の電話をいただいたりしました。平成3(1991)年「鑿の会」展が銀座で開かれたときお目にかかりお話しましたが、その時も「蔵書票は作るから」と土佐訛りで約束されました。
日和崎さんが亡くなられたことを知りましたのは、いつだったでしょうか。木口木版画を戦後我が国で復活させた作家であり、柄澤齊さん、栗田政裕さん等、現在活躍中の木口木版画家に大きな影響を及ぼした日和崎さんと会えなくなってしまいました。そして私は日和崎さんにお願いした蔵書票のことは諦めてしまい、いつしか忘れてしまっていました。
それから再び3年が過ぎ、1995年7月に高知県立美術館で回顧展をやるという知らせが日和崎雅代様から届きました。柄澤さんの講演・実演も企画されていて、高知行きを強く思いましたが、時間がとれず涙ながらに諦め、図録を送ってもらうことにしました。届いた図録を見ていますと、日和崎さんが作られた私の蔵書票が、いきなり目の中に飛び込んできました。大きなローソクの灯の下で、ピエロがお酒を飲みながら本を読んでいる図柄です。私はびっくりしました。これは何だ、どういうことなんだ。私はこの蔵書票の存在をそれまで全く知らないでいました。日和崎さんは私との約束をきちんと守り、蔵書票を作られていたのです。「江副君、蔵書票はちゃんと作ったからね」と、その蔵書票を通して日和崎さんが語っているようでした。日和崎さん、大変ありがとうございました。版木があるので、いつかこの蔵書票が私の手元に届くことがあるでしょう。その日が来るのを今から楽しみにしています。そして届きましたら早速その蔵書票を、この図録に貼ろうと思っています。本当にありがとうございました。■
私は高知の美術館の図録を見てすぐ、私の蔵書票の版木を捜してくださいと、雅代様にお願いの手紙を書きました。彼女からは、美術館員にお願いして捜してもらいましょう、と返事が来ましたが、それっきりなしの礫でした。
それから10年以上経った2007年9月、私が結核で入院中の病院に、日和崎雅代様から、蔵書票の版木が見つかり刷りを柄澤さんにお願いしているという短い内容のお便りと、一緒に届いた『 – 雅なる きみのちぶさに 芽はふきぬ - 日和崎尊夫句集』を、カミサンが病院まで届けてくれました。私が大変喜んだことは言うまでもありませんが、詳しい内容がわからないまま、50日の入院生活を終え10月31日に退院しました。自宅に帰り着くや否や直ちにパソコンのメールを開いたところ、たくさん溜まっていたメールの中に、何と私が入院した日に届いた1通のメールから、今回の物語が始まりました。遣り取りしたメールの内容は次のとおりです。
江副章之介さま
蔵書票奇譚
高知で個展があり、3日ほど現地に行って昨夜帰って来ました。久々に日和崎尊夫のアトリエ白椿荘を訪ね、雅代夫人にも会いました。その折、江副さんから蔵書票の話を伺っていたのを思い出し、訊いてみたところ、刷ったものは一枚だけあるが、版はないとのこと。アトリエには大量の版が保存されているのですが、みな同じような形、おまけにインクでまっ黒で、よくよく見てもどの絵の版が判りません。たまたま蔵書票や年賀状など小さな版を何十個と入れた籠があり、懐かしさからなにげなくいくつかを手にとって見ていました。
するとそのなかの一つに、なんとEZOEと文字が読めたのです。一枚だけの江副さんの蔵書票を出してもらい、比べるとドンピシャリ。発見しました! 夫人もびっくりしていましたが、無理もありません。素人目に見分けがつくようなものではないのです。たまたまぼくが江副さんの仕事をした直後だったので、それを感じた日和さんが導いてくれたのかもしれません。
本人が刷った一枚だけは、やはり夫人の手元に残すべきと思い、版だけ預かって帰ってきました。夫人は事情は分からないものの、代金を頂戴しているようなので、申し訳なく思っていた。もし柄澤さんが刷ってお渡しくださるなら、よろしくお願いしますとのこと。これもご縁。よければ亡き師匠の代わりにぼくが刷りますが、何部というような約束はされていましたか。
一部だけの刷りから判断しても、まだ試刷りの段階の版と思います。彫りは浅く、時間もたって版にたわみがあり、かならずしも良好な刷りが取れるとはかぎりません。お気持ち、お聞かせください。
9月13日 柄澤 齊
柄澤 齊さま
何と言うことでしょうか。版木の発見に、大変感動・感激しております。柄澤さんが書いておられるように、柄澤さんを通して発見できるように、日和崎さんが力を貸されたのではないでしょうか。本当にありがたいことです。20年以上前に注文しましたが、いつ頃作られたのか分りませんが、版木の状態が余り良くないようですね。しかし是非ほしい蔵書票です。かなり以前になりますが、柄澤さんとのお話で、「日和崎さんの蔵書票の版木が出てきたら、摺ってあげるよ」と言われた事を思い出します。その時には、このようなことが実現するとは全く思ってもいませんでしたが、本当にあるのですね。
1995年11月1日発行の『蔵書票ジャーナル第8号』に、「日和崎尊夫さんの蔵書票」というタイトルの拙文が掲載されています。日和崎さんに蔵書票を頼んだこと、電話を頂いたこと、平成3年に開催された「鑿の会」で会ったこと、高知の美術館での回顧展の案内と図録を日和崎雅代さまから頂いたこと、図録に私 の蔵書票が掲載されていて驚いたことなどを書きました。そして最後に、「・・・私はこの蔵書票の存在をそれまで全く知らないでいました。日和崎さんは私との約束をきちんと守り、蔵書票を作られていたのです。『江副君、蔵書票はちゃんと作ったからね』と、その(図録の)蔵書票を通して日和崎さんが語っているようでした 。日和崎さん、大変有り難うございました。版木があるので、いつかこの蔵書票が私の手元に届くことがあるでしょう。その日が来るのを今から楽しみにしています。そして届きましたら早速その蔵書票をこの図録に貼ろうと思っています。本当に有り難うございました。」と書きました。それから12年後に、その夢が実現するの ですから、とても不思議で仕方がありません。何か大きな力を感じます。今回柄澤さんが高知に行かれなかったら、実現がもっと先に伸びるか、あるいは実現しなかったかもしれません。版木が見つかったばかりではなく、柄澤さんに摺っていただけるなんて。日和崎さんの彫りで柄澤さんの摺りという、こんなに幸せな蔵書票はこれまで聞いたことがありません。枚数は50枚だったかと思いますが、もし可能でしたら、70枚お願いしたいのですが。どうぞよろしくお願いいたします。
ところでご返事が大変遅くなってしまった事を深くお詫びいたします。9月13日出勤途中、東京医科歯科大学付属病院で健診を受けましたところ、「結核」と診断されまして、着の身着のままの状態で、隔離病棟に直ちに入院させられました。結核菌を他人にうつさない状態になるまでの50日間、ただひたすら薬を飲み続けていました。そしてやっと昨日退院してきました。パソコンを持ち込もうとしましたが、会社からの連絡が入り、仕事をするようでは養生にはならない、ということで、外部との接触も断たれた50日間でした。面会も家族だけ。急激に減った体重を増やすために、それほど美味いとは言えない病院食を、薬だと思いすべて完食しました。お陰で体重も入院時より2.5キロ増え、2ヶ月以上と言われた入院も早めに退院できました。しかし今後も4ヶ月間薬を服用し、2年間保健所のチェックを受けることとなっています。そのような訳で、このような素晴らしいお話もやっと昨日詳しく分った次第です。柄澤さんからのメールと入院した日が同じ9月13日と言うのも、偶然とはいえ何か不思議な感じがします。
ところで、柄澤さんによる蔵書票の制作の件ですが、大変お忙しいことと思いますが、是非お願いいたします。条件は以前いただきましたメールの内容で結構です。もし宜しければ「了解」のご連絡を下さい。
退院して初めて、風に当たり秋の気配を感じました。季節を感じることは素晴らしいことです。以上、気持ちが高ぶり、大変長い内容となってしまいました。
11月1日 江副 章之介
江副章之介さま
メール拝読。なんと、結核で入院されていたとは!!!
ご返事がないのでパソコンの故障か、それとも長期の海外旅行にでも出られているのかと思っていました。辛い日々だったとお察ししますが、それはさておき快癒、ご退院、おめでとうございます。
さて日和さんの書票の件。
ぼくはあいかわらずの多忙に輪をかけて、この10日あたりから開始が遅れていた新聞の挿絵連載がスタートします。しばらくは余裕がなくなるので、まだ手の空いているうちにと思い、先日書票を刷ってみました。薄い版をプレスにかけるのはおっかなびっくりでしたが、工夫して思いの外良好な刷りが得られました。35部を刷り、うち25を黒で、10を茜がかった赤で刷りました。紙はこれも日和さんのアトリエに残っていた和紙の端切れです。彼が頼んで漉かせたとてもいい紙です。紙の寸法は出てきたまま。そのほうが絵に合っているのでわざと耳付きの不揃いにしてあります。当面、それ以上を刷る余裕がないので、残部はいずれ時間に余裕のあるときに刷るということでご了解ください。刷ったぶんは明日郵便で送ります。
ぼくの書票のご依頼ですが、お引き受けします。ただし来年。どのあたりになるかは未定ということで……。
11月1日 柄澤 齊
日和崎さんの35枚の蔵書票が届いたのは、それから間もなくのことでした。それらは柄澤さんが普段刷りに用いている雁皮紙に丁寧に包まれていました。嬉しくて雁皮紙を開く手が思わず震えてしまいます。黒と赤のインクで刷った、待ちに待った蔵書票です。机上に黒・赤の蔵書票を載せ、虫眼鏡でじっくりと見ました。細かい線描が私の目の中に飛びこんできました。当たり前のことですが図録のとおり、テーブルの横に大きなローソク台を置き、その灯の下でワインを飲みながら読書しているピエロの姿と、それらを取り囲むようにして、大きなEX LIBRISの文字、S.EZOEと彫られた魚の形をした板、それに6個の花々が細かくデザインされています。くだんの図録と雅代様から送っていただいた『日和崎尊夫句集』に、早速私がこの蔵書票を貼ったことは言うまでもありません。私はこの幸せをじっくりと嚙み締めながら、いつまでも蔵書票を見つめていました。
以上が日和崎さんの蔵書票が私の手元に届くまでの経緯です。注文してから20年以上の歳月が過ぎていましたが、師弟関係のお二人の手によるこの蔵書票は、自票の中でも大変印象に残る且つ自慢の一点となりました。
江副章之介
(日本書票協会通信 No.151 2010.4.1.掲載)
(この文章には、柄澤齊さんと私、江副の私信の遣り取りが入っています。発表するに当たり、柄澤さんの許可を得ていることを記しておきます。)
執筆者 林 由紀子 | | column
本の絵を描く人になりたいと思ったのは、10歳の誕生日のときだった。其日に買ってもらったE.A.ポオの短編集に司修さんの手になる挿絵があった。本の文章を書く職業のあることは知っていたが、本の絵を描く職業もあるはずだということに卒然と思い至ったのはまさにこの時である。 (さらに…)
執筆者 江副 章之介 | | column
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執筆者 田中 栞 | | column
江副章之介さんが育った長崎県島原市の家は、そのお隣が本屋さんだった。物心ついた頃から書店で過ごし、『少年』や『少年クラブ』などの雑誌や宮沢賢治の本を読みふける彼は、大層な本好きへと成長した。
30代の時、「蔵書票」という美術世界を知る。図案の中に依頼主の名前とお好みのモチーフが盛り込まれた小版画だ。日本では古来、蔵書印が使われてきたが、欧米では本の所蔵者を示すのに、お名前カードともいうべきこの蔵書票を本に貼ることが行われた。 (さらに…)