日和崎尊夫さんによる蔵書票「読書するピエロ(仮題)」に関するいきさつを書いた拙文が、1995年11月1日発行の『蔵書票ジャーナル』第8号に掲載されています。内容は以下のとおりです。

日和崎尊夫さんの蔵書票

10年ほど前(1985年頃)になるでしょうか、日和崎さんに蔵書票を作ってもらう機会がありました。日和崎さんの作品については、昭和48(1973)年頃の朝日新聞に連載された「新動物誌」の挿絵以来、大変興味を持っていましたので、早速お願いすることとしました。
蔵書票を依頼してから3年程(1988年頃)が過ぎても、なかなかくだんの蔵書票が出来てきません。遠く高知に住む日和崎さんに失礼を承知で手紙を書きました、「私の蔵書票は、いつごろできるのでしょうか」と。日和崎さんからはすぐに電話があり、「蔵書票は作るから安心しろ」と土佐訛りで話されました。作家からの直接の電話に私は驚きましたが、蔵書票が送られてくるのは間違いないと思い、安心して気長に待つことにしました。日和崎さんからはその後、高知名物の鰹節を送っていただいたり、ある年の正月など、「元気ですか。うまい酒どうも有り難う」と、すこしお酒の入った状態で突然の電話をいただいたりしました。平成3(1991)年「鑿の会」展が銀座で開かれたときお目にかかりお話しましたが、その時も「蔵書票は作るから」と土佐訛りで約束されました。
日和崎さんが亡くなられたことを知りましたのは、いつだったでしょうか。木口木版画を戦後我が国で復活させた作家であり、柄澤齊さん、栗田政裕さん等、現在活躍中の木口木版画家に大きな影響を及ぼした日和崎さんと会えなくなってしまいました。そして私は日和崎さんにお願いした蔵書票のことは諦めてしまい、いつしか忘れてしまっていました。
それから再び3年が過ぎ、1995年7月に高知県立美術館で回顧展をやるという知らせが日和崎雅代様から届きました。柄澤さんの講演・実演も企画されていて、高知行きを強く思いましたが、時間がとれず涙ながらに諦め、図録を送ってもらうことにしました。届いた図録を見ていますと、日和崎さんが作られた私の蔵書票が、いきなり目の中に飛び込んできました。大きなローソクの灯の下で、ピエロがお酒を飲みながら本を読んでいる図柄です。私はびっくりしました。これは何だ、どういうことなんだ。私はこの蔵書票の存在をそれまで全く知らないでいました。日和崎さんは私との約束をきちんと守り、蔵書票を作られていたのです。「江副君、蔵書票はちゃんと作ったからね」と、その蔵書票を通して日和崎さんが語っているようでした。日和崎さん、大変ありがとうございました。版木があるので、いつかこの蔵書票が私の手元に届くことがあるでしょう。その日が来るのを今から楽しみにしています。そして届きましたら早速その蔵書票を、この図録に貼ろうと思っています。本当にありがとうございました。■

私は高知の美術館の図録を見てすぐ、私の蔵書票の版木を捜してくださいと、雅代様にお願いの手紙を書きました。彼女からは、美術館員にお願いして捜してもらいましょう、と返事が来ましたが、それっきりなしの礫でした。

それから10年以上経った2007年9月、私が結核で入院中の病院に、日和崎雅代様から、蔵書票の版木が見つかり刷りを柄澤さんにお願いしているという短い内容のお便りと、一緒に届いた『 – 雅なる きみのちぶさに 芽はふきぬ - 日和崎尊夫句集』を、カミサンが病院まで届けてくれました。私が大変喜んだことは言うまでもありませんが、詳しい内容がわからないまま、50日の入院生活を終え10月31日に退院しました。自宅に帰り着くや否や直ちにパソコンのメールを開いたところ、たくさん溜まっていたメールの中に、何と私が入院した日に届いた1通のメールから、今回の物語が始まりました。遣り取りしたメールの内容は次のとおりです。


江副章之介さま
蔵書票奇譚
高知で個展があり、3日ほど現地に行って昨夜帰って来ました。久々に日和崎尊夫のアトリエ白椿荘を訪ね、雅代夫人にも会いました。その折、江副さんから蔵書票の話を伺っていたのを思い出し、訊いてみたところ、刷ったものは一枚だけあるが、版はないとのこと。アトリエには大量の版が保存されているのですが、みな同じような形、おまけにインクでまっ黒で、よくよく見てもどの絵の版が判りません。たまたま蔵書票や年賀状など小さな版を何十個と入れた籠があり、懐かしさからなにげなくいくつかを手にとって見ていました。

するとそのなかの一つに、なんとEZOEと文字が読めたのです。一枚だけの江副さんの蔵書票を出してもらい、比べるとドンピシャリ。発見しました! 夫人もびっくりしていましたが、無理もありません。素人目に見分けがつくようなものではないのです。たまたまぼくが江副さんの仕事をした直後だったので、それを感じた日和さんが導いてくれたのかもしれません。

本人が刷った一枚だけは、やはり夫人の手元に残すべきと思い、版だけ預かって帰ってきました。夫人は事情は分からないものの、代金を頂戴しているようなので、申し訳なく思っていた。もし柄澤さんが刷ってお渡しくださるなら、よろしくお願いしますとのこと。これもご縁。よければ亡き師匠の代わりにぼくが刷りますが、何部というような約束はされていましたか。

一部だけの刷りから判断しても、まだ試刷りの段階の版と思います。彫りは浅く、時間もたって版にたわみがあり、かならずしも良好な刷りが取れるとはかぎりません。お気持ち、お聞かせください。

9月13日 柄澤 齊


柄澤 齊さま
何と言うことでしょうか。版木の発見に、大変感動・感激しております。柄澤さんが書いておられるように、柄澤さんを通して発見できるように、日和崎さんが力を貸されたのではないでしょうか。本当にありがたいことです。20年以上前に注文しましたが、いつ頃作られたのか分りませんが、版木の状態が余り良くないようですね。しかし是非ほしい蔵書票です。かなり以前になりますが、柄澤さんとのお話で、「日和崎さんの蔵書票の版木が出てきたら、摺ってあげるよ」と言われた事を思い出します。その時には、このようなことが実現するとは全く思ってもいませんでしたが、本当にあるのですね。

1995年11月1日発行の『蔵書票ジャーナル第8号』に、「日和崎尊夫さんの蔵書票」というタイトルの拙文が掲載されています。日和崎さんに蔵書票を頼んだこと、電話を頂いたこと、平成3年に開催された「鑿の会」で会ったこと、高知の美術館での回顧展の案内と図録を日和崎雅代さまから頂いたこと、図録に私 の蔵書票が掲載されていて驚いたことなどを書きました。そして最後に、「・・・私はこの蔵書票の存在をそれまで全く知らないでいました。日和崎さんは私との約束をきちんと守り、蔵書票を作られていたのです。『江副君、蔵書票はちゃんと作ったからね』と、その(図録の)蔵書票を通して日和崎さんが語っているようでした 。日和崎さん、大変有り難うございました。版木があるので、いつかこの蔵書票が私の手元に届くことがあるでしょう。その日が来るのを今から楽しみにしています。そして届きましたら早速その蔵書票をこの図録に貼ろうと思っています。本当に有り難うございました。」と書きました。それから12年後に、その夢が実現するの ですから、とても不思議で仕方がありません。何か大きな力を感じます。今回柄澤さんが高知に行かれなかったら、実現がもっと先に伸びるか、あるいは実現しなかったかもしれません。版木が見つかったばかりではなく、柄澤さんに摺っていただけるなんて。日和崎さんの彫りで柄澤さんの摺りという、こんなに幸せな蔵書票はこれまで聞いたことがありません。枚数は50枚だったかと思いますが、もし可能でしたら、70枚お願いしたいのですが。どうぞよろしくお願いいたします。

ところでご返事が大変遅くなってしまった事を深くお詫びいたします。9月13日出勤途中、東京医科歯科大学付属病院で健診を受けましたところ、「結核」と診断されまして、着の身着のままの状態で、隔離病棟に直ちに入院させられました。結核菌を他人にうつさない状態になるまでの50日間、ただひたすら薬を飲み続けていました。そしてやっと昨日退院してきました。パソコンを持ち込もうとしましたが、会社からの連絡が入り、仕事をするようでは養生にはならない、ということで、外部との接触も断たれた50日間でした。面会も家族だけ。急激に減った体重を増やすために、それほど美味いとは言えない病院食を、薬だと思いすべて完食しました。お陰で体重も入院時より2.5キロ増え、2ヶ月以上と言われた入院も早めに退院できました。しかし今後も4ヶ月間薬を服用し、2年間保健所のチェックを受けることとなっています。そのような訳で、このような素晴らしいお話もやっと昨日詳しく分った次第です。柄澤さんからのメールと入院した日が同じ9月13日と言うのも、偶然とはいえ何か不思議な感じがします。

ところで、柄澤さんによる蔵書票の制作の件ですが、大変お忙しいことと思いますが、是非お願いいたします。条件は以前いただきましたメールの内容で結構です。もし宜しければ「了解」のご連絡を下さい。
退院して初めて、風に当たり秋の気配を感じました。季節を感じることは素晴らしいことです。以上、気持ちが高ぶり、大変長い内容となってしまいました。

11月1日 江副 章之介


江副章之介さま
メール拝読。なんと、結核で入院されていたとは!!!
ご返事がないのでパソコンの故障か、それとも長期の海外旅行にでも出られているのかと思っていました。辛い日々だったとお察ししますが、それはさておき快癒、ご退院、おめでとうございます。

さて日和さんの書票の件。
ぼくはあいかわらずの多忙に輪をかけて、この10日あたりから開始が遅れていた新聞の挿絵連載がスタートします。しばらくは余裕がなくなるので、まだ手の空いているうちにと思い、先日書票を刷ってみました。薄い版をプレスにかけるのはおっかなびっくりでしたが、工夫して思いの外良好な刷りが得られました。35部を刷り、うち25を黒で、10を茜がかった赤で刷りました。紙はこれも日和さんのアトリエに残っていた和紙の端切れです。彼が頼んで漉かせたとてもいい紙です。紙の寸法は出てきたまま。そのほうが絵に合っているのでわざと耳付きの不揃いにしてあります。当面、それ以上を刷る余裕がないので、残部はいずれ時間に余裕のあるときに刷るということでご了解ください。刷ったぶんは明日郵便で送ります。
ぼくの書票のご依頼ですが、お引き受けします。ただし来年。どのあたりになるかは未定ということで……。

11月1日 柄澤 齊


日和崎さんの35枚の蔵書票が届いたのは、それから間もなくのことでした。それらは柄澤さんが普段刷りに用いている雁皮紙に丁寧に包まれていました。嬉しくて雁皮紙を開く手が思わず震えてしまいます。黒と赤のインクで刷った、待ちに待った蔵書票です。机上に黒・赤の蔵書票を載せ、虫眼鏡でじっくりと見ました。細かい線描が私の目の中に飛びこんできました。当たり前のことですが図録のとおり、テーブルの横に大きなローソク台を置き、その灯の下でワインを飲みながら読書しているピエロの姿と、それらを取り囲むようにして、大きなEX LIBRISの文字、S.EZOEと彫られた魚の形をした板、それに6個の花々が細かくデザインされています。くだんの図録と雅代様から送っていただいた『日和崎尊夫句集』に、早速私がこの蔵書票を貼ったことは言うまでもありません。私はこの幸せをじっくりと嚙み締めながら、いつまでも蔵書票を見つめていました。

以上が日和崎さんの蔵書票が私の手元に届くまでの経緯です。注文してから20年以上の歳月が過ぎていましたが、師弟関係のお二人の手によるこの蔵書票は、自票の中でも大変印象に残る且つ自慢の一点となりました。

江副章之介
(日本書票協会通信 No.151 2010.4.1.掲載)

(この文章には、柄澤齊さんと私、江副の私信の遣り取りが入っています。発表するに当たり、柄澤さんの許可を得ていることを記しておきます。)