『黒富士』

前橋市のアートギャラリーミューズが柄澤齊さんのオリジナル作品を頒布する「柄澤齊エディションクラブ」を開始したのは1997年のことでした。私は欠員が出るまでしばらく待っていましたが、ようやく会員になった後の2013年の第16回頒布作品がこの「黒富士」でした。『黒富士』は柄澤さんの二作目の小説のタイトルでもありましたが、頒布作品は単行本の本扉を飾ることとなりました。本書をルリユ―ルするに当たり口絵制作を柄澤さんにお願いしたところ、口絵のほかに付録として鉛筆画の装画下絵も送られてきました。思い掛けない贈り物に大いに喜んだ次第です。「口絵は題をつけるなら『富岳噴火図』というところでしょうか。質感重視で、少し厚めの雁皮に金属箔を使いました。台紙も厚めの水彩紙なので、足をつけて綴じないと開きが悪いと思います」と製本するに当たっての注意書きが添えられていました。

新潮社版本体、柄澤さんの署名落款紙、口絵、木口木版画、装画下絵などの材料を藤井敬子さんに預けて待つこと1年。いつもながら完成したルリユールを受け取るときには期待に胸が膨らみドキドキします。

取り出し口が黒い山羊革で縁取られ、黒のオリジナルペーストぺーパーが貼られたスリップケースから、タイトル『黒富士』に相応しい出だしです。シュミーズは、やはり黒い仔牛革とオリジナルペーストペーパーでできていて、シュミーズに包まれた本体の天小口の金色が目に鮮やかに入ってきます。本体はしぼのきれいな黒い山羊革で覆われ、そこにこの小説の大団円ともいえる富士山の噴火がデザインされているのです。赤い溶岩と灰色の噴煙が富士の火口から成層圏にまで届けと言わんばかりに力強く立ち上っています。その噴煙のさらに上には、ペガサスに跨って天駆けている主人公のナギが想像できます。まさにこの装幀は『黒富士』そのものなのです。藤井さんはこの小説をじっくり読みこんで、このようにデザインされたのだと感服いたしました。併せて、新潮社版のジャケットと表紙も巻末に綴じ込まれており、藤井さんの心配りが嬉しいばかりです。

ここで柄澤さんが持っている不思議な予知能力について話しておきたいと思います。

柄澤さんは1990年に版画集『死と変容 Ⅱ 洪水』を発表しています。柄澤さんに直接伺ってはいませんが、私はこのシリーズを個展会場で初めて見たとき、これは「気候変動・地球温暖化問題」を取り上げている、と直ちに思いました。すなわち、近い将来訪れるであろう人類の危機を予言していると思い、私は次のようなことを勝手に想像してしまいました。

地球温暖化が進行し、とうとう南北両極の氷や高山の氷河が解け出してしまい、海水面が上昇し地球は作品「洪水A、B、C」のような状態に陥ってしまいました。私たちは「Conversation Piece」のような環境の中で生活せざるを得なくなってしまいます。そしてとうとう地球上では生きてゆけなくなってしまい、何百年、何千年、あるいは何万年もの間私の長女は「睡りA」のように海底深くで、長男は「睡りB」のように宇宙空間で、洪水が治まるまで永い眠りに就くのです。実に永い時が流れ、あれほど地球上を覆っていた水もいつしか引き陸地が現れ、人類が再び棲めるようになりました。しかし地軸に大きな変化が生じてしまい、「時の井戸」のように引力の方向が逆になっている場所がいくつか地上に現われてしまいました。それほど地球は大きく変化してしまったのです。洪水が治まったことも知らないで、深い海底と宇宙空間で眠っている私の子供たちは、いつ目覚めるのでしょうか、あるいは目覚める時が本当に来るのでしょうか。地球の将来は現在の私たちの手に委ねられているのです。

このシリーズはこのような物語を私に空想させるのです。このほか環境問題を示唆する作品がこのシリーズにはたくさんありました。環境を仕事としてきた私にとって、このシリーズに取り上げられた多くの作品に柄澤さんの鋭い感性と予知能力を強く感じ、私は大いに敬服したものです。

このことを考えてみると、柄澤さんが「黒富士」で述べている富士山の噴火はただ小説のなかだけのフィクションに過ぎないのでしょうか。否、私はそうとは思えません。きっと近い将来富士山は噴火するに違いありません。なぜなら富士山は近年火山性微動が観測されている活火山なのですから。

ということで、ここで突然ですが東国原英夫さんの句に次のようなのがあります。
     花震ふ富士山火山性微動

原本書誌
・著者:柄澤齊
・発行者:佐藤隆信
・装画:柄澤齊 カバーと表紙「浮岳虹雷図」、本扉「黒富士」
・装幀:新潮社装幀室
・発行所:株式会社新潮社
・印刷所:株式会社精興社
・製本所:大口製本印刷株式会社
・サイズ:h197×w140×d28mm
・出版年:2013年12月20日

ルリユール : 藤井敬子
・綴じ込み作品:柄澤齊による口絵、木口木版画、装画下絵
・仕様:総革装
・製本形態:パッセ カルトン(綴じつけ製本)
・綴じ:5本の麻紐支持体 麻糸綴じ
・表紙:3色の仔牛革によるインレイ、オンレイモザイク、赤い仔牛革に手染めグラデーション
・見返し:仔牛革と楮和紙に手彩色
・はなぎれ:4色の絹糸による手編み
・タイトル箔押し:大家利夫(本金)
・小口装飾:中村美奈子(天金)
・サイズ:h197×w144×d34mm
・シュミーズ:仔牛革とオリジナルペーストペーパー
・スリップケース:仔牛革とオリジナルペーストペーパー h203×w150×d45mm
・制作年:2016年

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