06.『粟谷陽一先生 木版年賀状他・印譜『思出』』

1964年4月、私は九州大学工学部土木系学科に入学するとすぐにワンダーフォーゲル部に入部し、勉強だけでなく山登りにも一所懸命打ち込みました。2年生の後期に教養部から本学に進むに当たり留年を余儀なくされた同級生がたくさんいましたが、無事に進むことが出来、3年生の後期から粟谷陽一先生の研究室に所属して、下水工学の研究に専念しました。4年生になって自分が勉強したことが役に立つと考え、就職先もO市下水道局と決まっていよいよ卒業を待つばかりとなった秋のある日、O市から「あなたの配属先が港湾局となりました」という書類が届きました。当初約束された希望の配属先ではなかったために、就職するモチベーションが一気に下がってしまいました。

卒業すると必ず就職しなければならず、就職しないためには卒業しないことだと勝手に決め込んで留年することにしました。最も単位が取りやすい講義1単位を故意に落として思い通り留年し、粟谷研究室に居残ることとしました。留年1年目の秋に大学院の試験を受けて無事合格、さらにもう2年粟谷研に居残ることが決まりました。ところが大学院1年の前期を終えると無性に海外へ行きたくなり、今度は2年間休学することにしました。休学中も粟谷研に所属させてもらいながら、10か月間のアルバイト資金と親からの借金で、1969年9月に横浜から船に乗ってシベリア経由で北欧へ行き、欧州をあちこちフラフラと巡り、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドを経て1970年10月、福岡に帰ってきました。その後の1年半は修士論文をまとめるために実験と解析を繰り返し、1973年3月、なんとか論文を提出しました。

優しい粟谷先生と愉快な仲間がいる研究室はあまりにも居心地が良く、大学3年生の後期から大学院修士課程修了までの6年半、この研究室に在籍してしまったのです。粟谷先生は少しも迷惑顔をせず、いつもニコニコ笑って私や研究室の学生たちに接していました。

先生の趣味は模型帆船製作と篆刻、木版画です。研究室を卒業した学生には先生からいつも自刻自刷りの年賀状が届いていました。私も卒業してから毎年、先生から木版画の年賀状をもらっていました。

2012年、先生が米寿を迎えられるのを機に、同じ研究室の同期の仲間たち3名で、木版年賀状と暑中見舞い状、そして先生が学生時代から彫ってこられた篆刻作品をカラー印刷して出版することにしました。研究室の卒業生の協力により、年賀状などは1963年から2011年までの45点を、篆刻は1945年から1979年までの46点を入手することができ、それらすべてを掲載しました。この年、8月11日に開催される米寿の祝賀パーティーの前日、同期の山崎惟義君とともに先生宅を訪れ、全冊に署名していただき、翌日本書を会場で希望者に頒布しました。

先生はその後、2014年10月11日に逝去されました。享年89歳でした。

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仕様

  • 企画:研究室同期の山崎惟義、北野義則、江副章之介
  • 署名:巻頭の先生の写真の下に署名
  • 大きさ:19.8×16.0cm
  • 装幀:紙表紙、中糸綴じ
  • 編集・印刷・製本:北見俊一
  • 発行部数:米寿にちなんで88部
  • 発行日:2012年8月11日 研究室OBによる粟谷先生米寿のお祝いの日
  • 頒布価格:2,200円(税込)
  • ISBN:978-4-9906508-0-3 C0071

在庫状況

完売